令和6年年忌早見表

 最近、住職さんたちから、”法事が少なくなったと”いう嘆きの声を耳にします。
 確かに、私の寺院の状況も、昔に比べて法事が少なくなりました。
 住職さんたちの嘆きは、もちろん収入が少なくなったことの嘆きも含んでいますが、宗教離れ・寺院離れの危機感からでもあります。
 さりとて、現状を変える打開策となると、妙案がなく、手をこまねいているというのが現状です。
 北陸地方は、昔から田の収穫が終わった10月ごろに法事が集中しました。1年の収穫を終えた感謝の気持ちがご先祖への感謝となり、親類縁者が集まって、読経の後のおときのご膳とお酒を囲み、自然の恵みとご先祖のご恩に感謝しました。
 ずっと昔は、一つの法事を、2日も3日もかかって勤めたこともあるというようなことを、前住職の父親から聞いたことがあります。これでは、法事を主宰する方も、お経を読む僧侶も、集まってくる親戚縁者の方々も大変だったのではないかと想像しますが、昔はそのような法事を勤める余裕が集まってくる3者にはあったということです。
 浄土真宗が広く伝播した背景には、先祖とのかかわりを大切にする風俗との結びつきがあったと言えるかも知れません。そのため、葬式と法事だけしていれば、お寺が成り立つという時代が長く続きました。
 しかし、核家族化が進み、今では核家族ですら成り立たない状況の中で、先祖が忘れられ、家族の中でご先祖が語り伝えられることもなくなりました。
 この時代の変化を寺院が看過して、昔の感覚のままでいたことが、時代に遅れる結果となり、今日の嘆きに至っています。
 もともと浄土真宗は、亡くなった人より、生き方に迷う民草を対象として、「講」という組織を作って伝播しました。そこに、浄土真宗の宗教活動の原点があったように思います。
 そういう宗教的土壌がすたれた状態の中で、「法事が少ない」と嘆いてみても、何も始まらないように思います。
 高次宗教といわれる宗教や僧侶の仕事は、先祖を祀る儀式のみを執行することではありません。複雑化する社会の中で、どう生きたらよいか迷っている人々に仏さまの智慧を伝えることにあります。
 とはいっても、法事を否定するつもりはありません。
 人間関係というものは、横と縦の関係で成り立っています。その両方の関係を、おろそかにしているのが現代人の生き方です。
 人間関係には、わずらわしい点もあります。それを嫌って、人々は、人と関わらなくてもよい社会を作り上げました。しかし、人間というものは、人と関わらなくては生きてゆけない存在であります。
 人間関係が希薄な社会がどうなるか、日々の新聞やテレビのニュースで知る事件をみれば明らかなことであります。犯人になった人物に、周りの人が、日頃からどうして関わってやれなかったのか、日頃からの関わりがあれば、犯罪を犯すこともなかっただろうと思える事件が多いように思います。
 現在、人間関係を構築しなおす色々な人間ネットワーク作りの試みがなされています。それは、地域の人間ネットワーク作りの試みであったり、もっと範囲の広いものであったりします。しかし、自殺志願者が集まるようなネットワークでは困りものですが、人々は、人とのつながりの大切さに気付き始めています。
 そうした状況の中で、寺院にしかできない役割というものがあるのではないでしょうか。
 現在の人間ネットワーク作りの試みは、横のつながりが中心です。縦のつながり作りは、やはり寺院が担う分野ではないかと思います。
 かつての寺院は、教養や文化、医療や福祉などにおいて、時代の先端を歩み、情報などの発信基地ともなり、コミュニティの中心的な役割を果たしていました。今では、そうした役割のほとんどを寺院以外の施設が担うこととなり、寺院の役割は、葬式と法事だけになってしまいました。
 しかし、葬式と法事だけとはいえ、それこそが縦の人間関係の大切さに気づく機会であります。その儀式を丁寧に執行し、儀式の後の法話などで、分かりやすく仏さまの教えを説くことが大切かと思われます。そういう地道な取組が、人々の心を和らげ・癒し、人間関係を大切にする心が育っていくものと思います。
 


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