法 話



   本堂祖師壇 


 この法話は、石川県の地元紙「北國新聞」夕刊の「野辺の送り」というお悔やみ欄に掲 載していただいたものです。「生」と「死」いうものを、私たちはどのように受け止めて生きたら良いのか。 そんなことを考えながらつづりました。 字数が制限されているので、まとまった話にするのに毎回苦労しますが、私にとっては、よい勉強をさせていただいています。


【独生独死】平成16年5月掲載

 昔の人は、家で生まれ家で死にましたが、現代は病院で生まれ病院で死ぬ時代となりました。死亡者の約八十%は、病院で死を迎えます。残りの二十%には、事故や事件に巻き込まれて死ぬ人が含まれますから、家で死ねる人の率は二十%を下回ります。
 やがて死を迎えようとする人の多くは、家で死にたいと思い、それを口にもしてみますが叶えられません。そのため、孤独やいらだちや恐れなどの心理に苦しめられます。病院では、患者の心を和らげて癒すための療法が試みられますが、問題なのは、死を受け入れる側の心構えはどうなっているのかということです。
 お経の中に「独生独死独去独来」ということばが出てきます。人間はだれでも、一人で生まれ、一人で死んで行かねばなりません。この「独生独死」の現実までも、「ご恩うれしや 南無阿弥陀仏」と称えて、まるごと受け入れていくのが「お念仏のこころ」であります。


【六道の闇を開く】平成15年12月掲載

 今年は、「なんでだろ〜」ということばが大流行しました。なんで、こんな息苦しい世の中になってしまったのでしょうか。閉塞した社会の中で、私たちはやりきれないものを感じながら日々を生きています。
 「六道輪廻」とは、抜け出しがたい癒しのない苦しみの人生を意味します。現代人の生きざまは、まさに六道の闇の中で、もがきながら流転しているように見えます。といっても、自分のことだと気づいている人は少ないようです。
 この六道にしか住めない自分であったと気づいた親鸞聖人は、「とても地獄は一定すみかぞかし」と確信しました。そして「地獄こそ我がすみか」と覚ることで、心の黒闇を開く仏さまの智慧の光に出会われました。


【 願いにこたえる 】平成12年 3月23日掲載

 私たちは、生まれるとひとつの名前をいただく。名には、付けてくださった方の願いが込められている。昔は、子供の生存率が低かった。子には長生きの願いを込めて「千代」「鶴」「亀」などの名が好まれた。現在は、生存率が高くなり、長生きすることがほぼ確実だから、長い人生を、明るく、のびのびと、さわやかに生きて欲しいとの願いを込めた名が多いようだ。
 しかし、自分の名に込められた願いに応えようとする人は少ない。逆に、自分の名が気に入らないと感じている人が相当居る。
 自分にかけられた願いに思いを致し、その願いの実現を人生の目標とする生き方が、故人の私たちにかけられた願いに応える道でもある。


【 大悲 】平成12年 9月19日掲載 

 親になってはじめて親の苦労を知り、親に死なれてはじめて親の存在の大きさを思い知らされるということがある。そして、その時、親の私に対する愛情の不足をかこち、不満に思い、親の存在をうとましくさえ思ったこともあった若かったころの自分を悔いても、もう親孝行するには間に合わないのである。
 私たちは、生まれながらにして、すでに大きな愛情に包まれているのであって、その愛情を仏教では「大悲」という。私たちに常に働きかけていてくださる親の愛情にも似た大きな働きに心が開かれていく時、はじめて自己のみにくさが明らかになり、罪深いままで許されている自分を謙虚に受け止めて行くことができるのである。



【 悲しみを超える 】平成12年11月28日掲載

 肉親や親しい人との永遠の別れはつらく悲しいことですが、「悲しみ」にいつまでも止まっていると、その人の人生も、そこで止まってしまいます。
 親鸞聖人は、お弟子の方々の訃報に接しられたとき、そのご返事に「かえすがえすうれしうそうろう」とか「めでたさ、申しつくすべくもそうらわず」と述べられました。
 現代では、人が亡くなって「おめでとう」と言う人は居ませんが、残された方が、少なくとも、亡くなった方に対して「ご苦労さまでした。ありがとう。」という気持ちを持てるようになり、肉親の死を前向きに受け止めることができるようになったとき、その人の人生は、新たな歩みを始めることになります。



【 不条理な一期 】平成13年 1月23日掲載

 先週、駐車場で雪をかぶった車の中から、一酸化炭素中毒によるとみられる死亡者が相次いで発見され、その中に、二十代の女性が二人も含まれるという痛ましい事故が起きました。
 不条理で不公平、そのうえ計算できない不慮の人生を歩まねばならないのが人間存在です。そのような現実を、仏教は「転倒上下」とか「老少不定」ということばで説きました。さらに私たちは「電光朝露のあだなる身」として「夢まぼろしのごとくなる一期」を生ているのです。
 このように、不合理で、はかない現実を「永遠なる命」に昇華して、この世の苦悩から解放され目覚めた古人は、「八万四千の光明」に照らされていると感じました。「光」は「生きる喜び」の象徴でもあるのです。



【 亡き人からの心のメッセージ 】平成13年 3月20日掲載

 私たちの宗派では、ご法事のはじめに、「表白文」を僧侶が読みあげます。そのなかに、「…有縁のひとびと相寄り集い、亡き人を偲びつつ、如来のみおしえに遇いたてまつる。…」という一文があります。
 ご法事では、ゆかりのひとびとが集まり、故人をしのんでお参りをします。その時、仏さまが、私たちにメッセージを届けてくださるというのです。
 このメッセージを受け取ることが、ご法事のかなめです。そのためには、心の耳を開いておかねばなりません。そうしておくと、届いた仏さまのおことばが、私の心にじわりと染みわたります。
 そして、そのようにして届けられた心のメッセージは、私に、生きる喜びと希望、さらに勇気と元気をも与えてくださるのです。



【 み光りのもと 】平成13年 4 月19日掲載

 親鸞聖人は、「光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし。」とおっしゃいました。
 私たちは、今まさにほがらかな陽光のもとにあります。
 こんな季節に、一日の田仕事を終え、田に鳴くかえるの声を聞きながら寝床に入ったある母子の会話があります。
  子「かえるがしきりに鳴いていますが、お母さん、あれはなんでですか。」
  母「あれこそは、法蔵比丘さまですよ。このおぼろ夜に、村の人たちが休んでいる間も、この私たちのために、心を砕いてくださっている菩薩さまですよ……。」
 こんな話をしながら、親子は、やすらかな眠りに入っていきました。
 自然に抱かれて何の不安不足もなく、あるがままを感謝の心で受け入れて生きる母は、仏さまのみ光りの恵みを、こんなふうに我が子に教えました。
 ほんのりとしたエピソードであります。